最近、活動でうまくいっていない話を耳にする機会が増えた。そんな気がする。

推しの一人はYouTubeの配信に直ぐに警告が来てしまい問題点もその基準も分からないため疑心暗鬼の只中にいる。他にもいいねが減ったことで自分の才能を疑う推し、どう見てもヤバい新興の閉鎖的な中央集権SNSに創作活動を全ベットする推し、アッパーなテンションで自己啓発な有料記事に次々共鳴したかと思えば2時間後にはダウナーの底な人、もう作品投稿より政治のRPアカウントな人等々。

これらの原因の一端がSNSのアルゴリズムにあることを否定するのは難しいだろう。

SNSでよく語られる「AIに感情はあるのか」や『シンギュラリティはもう実際には来ている可能性がある』的な記事で頻出する話題だが、アルゴリズムが行動を左右する主戦場になった今、私は人間(webアカウント)のアイデンティティを成す要素が不確かなものに瓦解しそれぞれが弱体化し始めたと考える。


「いいね」とはなんだろう

InstagramもXもYouTubeも、作品の構成や配信の内容を直接数値化できない代わりにRP,いいね,コメント,報告などの評価項目がある。
しかし、私は推しVTuberの配信告知投稿や配信に対し、開いた瞬間にいいねを押す。
投稿に爆笑したり配信に感動したりした結果いいねを押しているわけではない。

もっと正直に言ってしまえばこれは評価をしているわけではない。

クリエイターとファン,アイドルとファンの関係性ではこれが人気のバロメータや明日の活動のモチベーションとなるが、全体や外部のコミュニティからこれを見ると「ファンが沢山いいねを押すことで“良い”投稿や“良い”配信の体裁を成したもの」になり、それらのURLは忽ち『他人が良いと言っているからきっと良いんだろう』『私も良いと思う』という柔軟な人を待ち望む状態となる。

この状態の行く末を人伝以上のものに強化して多くの柔軟な人に巡り合わせることが出来れば皆ハッピーになるはずというのがSNSのレコメンドアルゴリズムの源流だ。

しかし、これは前述したように『見る→良かった→いいねを押す』という人間の心の手続きを踏んでおらず評価をしたわけではない。
ではこの場合「いいね」とはなんだろう?
それは最早レコメンドアルゴリズムへの拝察である。


プログラムに宛てた推薦状

「この投稿や配信は良いぞ!」ということを推しに告げているわけでもない。そんなもの始まる前から全部良いに決まっている。レコメンドアルゴリズム御中で推薦状を毎回必死に書いているのだ。

皮肉なことに日々話題に上がる不祥事や炎上などのネガティブな話題も同じ構造だ。
『私も許せない』と感じる投稿や配信の前段には過激思想を持ち、常日頃そうした話題に嚙り付いているアカウントたちでRPといいねを押し合って薪をくべ、火を大きくしていった履歴がある。


アルゴリズムによる1票の無価値化

問題は、我々の1票には今後どれほどの価値があるのか。ということだ。
あまり訪れなくなった中央集権SNSで推しの投稿時のプッシュ通知をONにして、通知が来たらXに飛びいいねを押し、YouTubeの配信が始まったら忘れないうちにいいねを押し、Xでの「配信が終わったよ」報告にもいいねを押す。

こんなあからさまにbotみたいなアカウント、私がレコメンドアルゴリズムの創造主であれば、全体や外部のコミュニティに対する『他人が良いと言っているからきっと良いんだろう』への切符をいつまでも握らせておくわけがないと私は考える。

逆にそこへ訪れた際、つい目に入った「インコがご機嫌で歩いている動画」にいいねを押した瞬間こそ、私の1票の価値は復活するのではないか?
もしその動画がアルゴリズムによっておすすめされたものだったとき、私は,私が培ってきたアイデンティティは、アルゴリズムに制圧されたに等しい。
これはシンギュラリティの中に生きていることと何か違いがあるだろうか。
中央集権SNSで今の私のいいね1票にはどれほどの価値が残っているのだろうか。

今日も推しは「既読感覚でいいねと高評価をよろしく」と中央集権SNSの中で戦っているというのに。

「クリエイターとファンをSNSがつないで支援する構造」が破綻しつつあることがPatreonのレポート「State Of Create」で明らかに – GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20250227-patreon-state-of-create-2025/